第1回サイファイ対話 CoELP のご案内
われわれがこの人生を生きる中でいろいろな問題に遭遇しますが、その中に生命倫理に関わる問題があります。この問題についてどのように考えたらよいのか、あるいは考えるべきなのでしょうか。今回、「サイファイ対話 CoELP」(Conversations on Ethics of Life with Philosophers:哲学者との生命倫理対話)と名づけた会を設け、生命倫理の専門家とのディスカッションを通して、人間の生についての認識を深めていくことにいたしました。
第1回は、中澤栄輔先生(東京大学)をお招きして、生命倫理を考える際に注意すべき大枠を概説していただき、特に生の終わりに直面する倫理的な問題について考えることにいたしました。快く講師の任をお引き受けいただいた中澤先生に改めて感謝いたします。
このテーマについて一緒に考えてみたいと思われる皆様の参加をお待ちしております。よろしくお願いいたします。
呼びかけ人 矢倉英隆
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日 時: 2025年12月6日(土)14:00~17:00
会 場: 東京ウィメンズプラザ 2F 第2会議室 B
会 費: 一般 1,000円、学生 無料
(飲み物は各自ご持参ください)
連絡先: 矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)
プログラム
14:00~14:10 矢倉英隆(呼びかけ人): イントロダクション
14:10~15:30 中澤栄輔(東京大学大学院医学系研究科・医療倫理学分野)
「生命倫理の問題を考える――いのちの終わりの倫理」
本講演では、生命倫理の問題をどのように捉え、どのように考えるべきか、その基本的な視点を概説したうえで、「いのちの終わり」に関わる倫理的課題を中心に考えていきます。生命倫理を考える際には、医療技術の進展がもたらす影響、患者の自己決定と専門職の責任、そして制度と個人の価値観のあいだに生じる緊張など、複数の観点を行き来する姿勢が求められます。なかでも終末期医療の場面では、延命治療をどこまで行うか、患者の意思が確認できないときにどう判断するかといった、簡単には結論の出ない問いが浮かび上がります。こうした問いに向き合うときには、倫理原則に即して考えるのみならず、関係性の中で支えられる意思決定、そのための対話の積み重ねが重要になってきます。医療倫理において「正解」が得られない場面は少なくありませんが、そのなかでどのように「よりよい判断」を模索するかという姿勢こそが問われているのではないでしょうか。本講演では、こうした視点から「生の終わり」をめぐる倫理的課題について皆さんとともに考えていきたいと思います。
15:30~16:50 ディスカッション
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会のまとめ
第1回となるサイファイ対話 CoELPは、中澤英輔先生(東京大学)をお招きして東京ウィメンズプラザで開催された。この会を構想している段階では、無名の会の招待に応じていただける哲学者の方がおられるのか全く分からなかったが、中澤先生が二つ返事で応じていただいたのが心強く、会は順調に動き出すのではないかという確信のようなものが生まれた。実際、会に参加された方も想像を上回るものがあり、当日飛び入りされた方(2名)とわたしを含めると14名という最近では例を見ない規模となった。
中澤先生のお話は、前半がこれまでの自らの研究史の紹介、後半が本題の「いのちの終わりの倫理」についての検討であった。前半の「自己紹介」の部から記憶を頼りにまとめてみたい。野沢北高校から日本大学文理学部に進まれ、ドイツ文学、哲学を研究。その間に科学者や科学哲学に興味が湧いてきたため東京大学でマスターとドクターを修了。国際哲学教育研究センター(UTCP)を経て、現在は医学部の医療倫理学分野を担当されている。指導を受けた先生として、以下のような名前を挙げられた。
村田純一(1948-):現象学がご専門で、『色彩の哲学』(2002)、『技術の倫理学』(2006)、『技術の哲学』(2009)『技術の哲学 古代ギリシャから現代まで』(2023)などの著作がある。
ご本人の研究の流れは、哲学からスタートされ、科学哲学、心の哲学、現象学という理論的な研究をベースにしていたが、現在はニューロエシックス、医療倫理、公衆衛生倫理というような応用、実践に重点を置いた研究に移行されたようである。その背後には、社会に対する貢献という意識が働いたとのことであった。例えば、ニューロフィードバックという脳波を指標に被験者がリアルタイムで脳活動を望む方向に自己調整する方法があるが、そこに絡んでくる倫理的な問題(インフォームドコンセント、人格への介入、情報保護など)、リアルタイムMRIによる介入の倫理、大規模観察研究における倫理(インフォームドコンセント、個人情報の保護、対象の公平性、継続的観察など)、個別結果の返却の問題(病気のリスクを知ることと治療法がない病気のリスクを知ることによる精神的な影響、知らない権利など)、臓器移植の倫理などが研究対象になっている。
この過程で、「関係的自律」(relational autonomy)という概念が出てきた。これは、古典的な自律が意志決定を個人のレベルに限局していたのに対し、関係的自律においては、社会的、文化的、歴史的な関係性の中で決定されると考える。この視点は、終末期医療や臓器移植における意志決定、精神疾患患者の自律、研究倫理を考える上でも重要性を増しているようだ。
医療倫理には、臨床倫理と研究倫理が含まれる。それから中澤先生が重要だとしていた領域に公衆衛生倫理があった。例えば、感染症対策における資源配分(ワクチンなど)、喫煙、医療格差と健康格差、公衆衛生と民主主義の関係などがテーマになる。公衆衛生と民主主義を考える上で重要になると思われたのは、「市民的徳」(civic virtue)という概念であった。以下に敷衍してみたい。
市民的徳とは、社会の一員として、共同体の維持・発展のために自発的に行動する習慣・価値・態度に関わる特質を指す概念で、自分の利益よりも公共の利益を重視するということが基本にある。COVID-19のパンデミックを思い出すと、イメージしやすいかもしれない。公衆衛生の多くの政策は、個人だけではなく他者の健康のための行動(例えば、予防接種、行動制限、感染症の届出、高齢者や弱者への配慮など)を要求するところがあるので、自己利益と公共利益を調整するための市民的徳が不可欠になる。
「民主主義は市民の質に依存する」という言葉があるが、より具体的に言えば「民主主義は市民的徳の質に依存する」となるのではないだろうか。その中には、虚偽情報に振り回されない成熟、公共的判断、反対意見への寛容、合意形成への意欲、公共実践への参加などが含まれるが、これが失われると扇動政治、ポピュリズム、陰謀論、分断などに向かう流れは容易に想像できるようになっている。
上述の「関係的自律」との関係で言えば、市民的徳が公共的行為の質を問題にするのに対して、関係的自律は個人の自己決定の成立に焦点を合わせるという点で違いはあるが、人間は単独で完結した存在ではないという前提に立っている点で通じるところがある。関係的自律を実践する時に重要になるのが市民的徳になると言えるかもしれない。これらの問題はこれからの我々の社会を考える上で核になると思われるので、もっと広く議論されてもよいのではないだろうか。
後半では、いのちの終わりに関わる倫理がテーマになった。そこで問題になるのは、しばしば死ぬ権利を巡る課題だが、その前に生きる権利について考える必要があるのではないかと主張された。生きる権利(生存権)を考える際の拠り所として憲法25条があり、以下のように記されている。
1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
この条文に関しては、2つの解釈があるようだ。1つは「プログラム規定説」と呼ばれるもので、条文は政策目標や政治道徳的義務を述べただけで、国民に裁判で主張できる具体的生存権を与えるものではないという見方である。もう1つは「法的権利説」で、条文の生存権は国民が具体的に主張しうる法的権利で、必要な場合には国家に対して裁判で救済を求められるとする見方である。この中にはさらに、「具体的権利説」と「抽象的権利説」という2つの見方がある。前者は、法律がなくても憲法25条を法的根拠として裁判に訴えることができるとする。それに対する後者は、憲法25条を根拠に給付を求める裁判を起こすことはできないが、憲法を具体化する法律を制定しない場合には不作為に対する訴えを起こすことはできるとする。
もう1つ拠り所にすべき視点として、患者の権利に関する世界医師会リスボン宣言がある(日本医師会のサイト)。基本には、すべての人は差別なしに適切な治療を受ける権利を有するという考え方がある。詳細は上のサイトに当たっていただければ幸いである。
生きる権利を考える際に重要になる問題を提起していると思われる2つの相模原事件が挙げられた。1つは、2016年7月26日未明に相模原市で発生した相模原障害者施設殺傷事件である。津久井やまゆり園の元職員の植松 聖(うえまつさとし、当時26歳)が、同施設に刃物を所持して侵入し、入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた。意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在であるため、重度障害者を安楽死させれば世界平和につながるという思想の持ち主による犯行であった。
この事件を通して、多くの考え方の対立が浮き彫りにされたように見える。生きる権利という問題の他に、優生思想、生の選別、あるいは共生に関わ考え方である。他者の生の価値をそもそも評価することはできるのかできないのか。生きているだけで価値があるのか、自立や社会に具体的な貢献(生産性など)がなければ生きている価値はないのか。人間とは依存して存在しているのだという見方や、理解不能な他者との共生を可能にする寛容や社会・コミュニティの構築など、新しい総合的な哲学・倫理学が必要になるのではないだろうか。
もう1つの相模原事件は、2004年8月、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患う長男(当時40歳)の母親(60歳)が人工呼吸器の電源を切り、長男を窒息死させた後、心中を図るも未遂に終わった事件である。長男は人工呼吸器装着後、「呼吸器を外してほしい」と頻繁に懇願しており、母親は長男の苦しみと将来への絶望を見かねて同意した結果のことであった。裁判では、嘱託殺人罪で実刑(懲役3年・執行猶予5年)判決を受けた。この事件を契機に、障害者・重度介護者への包括的支援体制整備(ケアの共同体化)の必要性が再認識され、「尊厳死」に関する社会的議論や「家族介護の限界」に関する議論が促進され、公共政策に反映されるような動きがあるようであった。一つの教訓として、家族だけに頼らず、多様な支援の導入と社会的コンセンサスが必須になることが挙げられるが、そのためには上述の「関係的自律」からの思考が欠かせないだろう。さらに、このような議論を医療関係者だけではなく、宗教家も含めた市民が参加して開かれた場で行う「公的熟議」の機会が少ないような印象を受けるがいかがだろうか。
ここで、死ぬ権利に関する議論に入る。安楽死には、積極的安楽死(医師による幇助自殺)と消極的安楽死(治療の中止、治療の差し控え)がある。医師による自殺幇助とは、医師が患者の要請に基づき、致死薬などの自死を可能にする手段を提供・処方するが、実行は患者自身が行う行為のことである。これは、患者の尊厳と自律性を尊重する行為と評価される一方で、次のような重大な倫理的批判が出されている。
(1)医師の本来的役割は生命の維持と苦痛の緩和にあり、死を促進する行為はその専門職倫理と矛盾する可能性がある。
(2)自殺幇助の制度化は、社会的に脆弱な人々(高齢者、障害者など)に「死を選ぶべき」という圧力を与えるおそれがある。
(3)患者の意思が真に自由で熟慮されたものであるかを評価することは容易ではなく、うつ状態や社会的孤立の影響を受けている場合もある。
治療の中止は、患者さんの意思に基づいて、すでに行っている人工呼吸器など生命の維持に必要な治療を中止することで、治療の差し控えは、患者さんの意思に基づいて、人工呼吸器など生命の維持に必要な治療をそもそも行わないことである。この点について、厚生労働省から「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」(改訂、2018)が出されている。このプロセスガイドラインの骨子は、以下のとおりである。
① 本人が多専門職種の医療・介護従事者から構成される医療・ケアチームと十分な話し合いを行い、本人による意思決定を基本としたうえで、人生の最終段階における医療・ケアを進めることが最も重要な原則である。
* 本人の意思は変化しうる
* 家族を含めた話し合い
* 代理意思決定者の選定
② 医療・ケアチームによって、医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべきである。
③ 可能な限り緩和ケアを行う。
④ 積極的安楽死はこのガイドラインの範囲外になる。
世界的には積極的安楽死(医師による自殺幇助)が認められているところもあるが、日本では議論の外に置かれている。2019年に発生した京都ALS嘱託殺人事件では、ALS患者の女性がSNSで医師に自殺幇助を依頼し、2名の医師が致死薬を投与して女性は死亡。医師らは嘱託殺人罪で逮捕・起訴された。この事件は日本における安楽死・自殺幇助の議論を活発化させたが、合法化や法制度の大転換は起きていない。ただし、終末期医療のプロセスガイドラインやアドバンス・ケア・プラニング(ACP)の普及・啓発、医療倫理教育の強化といった領域での改善は進んだようである。
この「アドバンス・ケア・プランニング」(ACP)とは、将来の変化に備え、将来の医療及びケアについて、患者さんを主体に、そのご家族や近しい人、医療・ケアチーム(この参加が重要)が繰り返し話し合いを行い、患者さんの意思決定を支援するプロセスのこと。患者さんの人生観や価値観、希望に沿った、将来の医療及びケアを具体化することを目標としている。ただ、このような取り組みの重要性を認めながらも、人生の最終盤の状況を想定することの難しさもあり、多くの人が実践するところまでは行っていないようである。この議論の際に、人生の最終盤に限定せず、人生の在り方、生き方を比較的若い時代から考えておくことの重要性を強調する意味で、ケアの代わりにライフを使った「アドバンス・ライフ・プラニング」(ALP)という考え方も出されているとのことであった。
今回のお話は、単に終末期医療の現場をどのように考えるのかという問題を超えて、われわれの生命および人生に対する考え方、さらに社会や民主主義の在り方などを問うもので、それらに対応するためには、広い領野に及ぶ複合的な思考が求められることも明らかになった。その意味で、貴重な時間となったのではないだろうか。
最後に、今回のテーマに関連するエセーを『医学のあゆみ』のシリーズでも書いているのではないかと思い調べたところ、いくつか見つかったので以下に貼り付けておきたい。
● クリスチャン・ド・デューブという科学者、あるいは「知的誠実さ」という価値.医学のあゆみ 248: 811-815, 2014
● 生命か自由か、あるいは尊厳ある生の終わり方.医学のあゆみ 249: 202-206, 2014
● 風光明媚なブルターニュで、医学と人間の生における時間を考える.医学のあゆみ 249: 1211-1215, 2014
来年も新しいテーマでの対話を企画する予定です。
今後ともご理解、ご支援のほどよろしくお願いいたします。
参加者からのコメント
◉ 本日も、いつものように主宰者としての労をお取りくださって、有難うございました。たいへん興味深く、良い勉強をさせていただきました。かような素晴らしいCoELPが、今後ますます成長して、さらに良き学びと情報交換のカフェとなりますよう、祈念いたします。本日は、有難うございました。
◉ いつもお世話になっております。本日は有意義な講演「生命倫理を考える」と対話を企画して頂き誠にありがとうございました。中澤栄輔先生の経歴からの興味深いお話と、倫理の上での現在に於ける生死にまつわる様々な問題点が重くこの世に横たわっていることを知ることが出来ました。最後の「簡易版もしばなゲーム」によっては、自身の潜在的本心が垣間見れた気がしましたし、大変面白い発見でした。「生きるべきか死ぬべきか?」という本人の意思が尊重され生死の選択が出来る時代が日本にもいずれ来るかもしれないし、あいまいながらも強制的な死に向かう体制になるのかもしれないとも考えられる気もしました。自身の年齢のことを考えると、死は遠いことではなく、身近にあることで、いざというときに自然に穏やかに死を受け入れることのできる人生の心積りができそうです。また懇親会も会話が弾み大変楽しい時間でした。ありがとうございました。生死の問題が大変重い問題であるにも関わらず、美味しいものを皆で食べ、和気あいあいと皆様と語り合う時間は幸せな時間であり、このような貴重な時間を作って頂いた矢倉先生に感謝します。中澤先生、皆さま、誠にありがとうございました。
◉ 昨日はありがとうございました。哲学的な素養を持った先生から、終末期医療のお話を伺えた事は、貴重な経験となりました。サイファイ研究所のご趣旨に深く賛同致します。知識が知識で終わらない世界を、私も作ってみたいと思います。
◉ たいへん有意義な場を作っていただき、感謝です。倫理的な問題は、日常生活の具体的な場面で、いつも判断を迫られる身近な問題であるのに、これまでほとんど、何も考えてこなかったことに気づかされました。今回のご講演では、個人が倫理的判断をすべて背負う必要はなく、社会の関与がどう行われるべきかという、民主主義に関わる問題が、倫理にはあることが、重要な論点のひとつだったと感じました。
◉ いのちの終わりという大きなテーマで時間がまったく足りませんでしたが、まずは終末期の医療倫理の課題を多様な観点から活発な議論で掘り起こしたという意味で大変に有意義であったと思います。
中澤先生、お忙しいところを「生命倫理を考える―いのちの終わりの倫理」のご講演と議論をいただきありがとうございました。人生の終末をどう捉えどう過ごすかという、人類の永遠のテーマとも言える、重大で解の収束が得られそうにない難しい問題に、正面から真摯に取り組んでおられる中澤先生の熱量がひしししと感じられ濃密な時間でした。話題が医療倫理の広い範囲にわたりましたが、私はいのちの終わりについての感想を述べさせていただきます。
もしばなゲームで私が最後に残した3つの項目は、「痛みがない」、「いい人生だった」、「理解者がいる」でしたがこれは自分の願望です。他の参加者の方がどのような思いを込められていたのかはよくわかりませんが、私は生の終りの近くでこのような感覚を一瞬でも持つことができれば幸運だと思っています。ベルグソンは亡くなる直前にナチ占領下のパリで「自分は長生きをしすぎたようだ」とつぶやいたといいます。自分の願望どおりに生を終えることができた方がこれまでにどれほどいたのか、先人に聞いてみたいと思いますが、それは想像の世界にしか存在しません。カントは晩年に認知症を発症して思考の能力を失っていったことがヤマハンにより語られています(カントの生涯、Jachmann, R.B.著、木場深定訳、1978年)。この偉大な哲学者が感性と悟性を失い認識を失っていく終末の内面を想像することはとても難しいことです。
ACP(Advance Care Planning)について、医療者の方を含め多くの人が自分の終末に対する考えを具体的に文書化していないという事実に驚かされました。これは年代によっても異なるのでしょうが、ある程度の年齢に達すればどこかで終末を意識しているはずですが、それを無意識のうちにあるいは意識的に遠ざけている結果の顕れと思います。この「いのちの終わりの倫理」という問題からは、生命の「有限性」と思考の「多様性」とその「自由」、そしてそこに潜んでいる「普遍性」をどう捉えていくのかという哲学の根源的な課題が含まれていて、まさにACPはこれを取り扱おうとしているのだと思いました。
ACPについて浅薄な考えを少し申し上げます。ALCP(Advance Life & Care Planning)の表記が適切ではなかろうかと考えました。それは終末期にはLifeに対する当事者を含むその周辺の方々の思いと考え方がまずそこにあり、それを踏まえたCareが引き続くからです。Life だけでもCareだけでも終末期を考えるための条件を十分に満足しないのではないかと思うからです。そしてACPにおいて医療が当事者の思いや実情をどこまで想定できるのか、その想定を医療にどう取り入れるのか、あるいは不確かかもしれない想定を取り入れてよいのか、客観的評価は本当に可能なのか、これもとても難しい問題と思いました。安楽死については個人の権利としての「自由(リベルテ)」をどう考えるのかも、自由と権利の概念について西欧と文化の違う日本においてどう議論を展開していくのか哲学的な課題として残された部分ではないか思いました。日本で宗教がこの議論に参加しにくい現状も同じ範疇にあるのではないかと思いました。
医療倫理には終末期だけではなく多くの課題が存在していることを講演で示していただきました。今後も多様な観点からの医療倫理の哲学対話ができればと願っております。貴重な時間を有難うございました。
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